都議会の野次事件とその派生状況から見る女性問題と人権について
前回、次は個人主義について話す、とか行った気もしますが、今回はこれで。
多くのメディアで取り上げられていて、今話題となっています、このテーマです。
女性都議に「産めないのか」 自民?議員席からヤジ - 朝日新聞デジタル http://t.asahi.com/f1fk
酷い話だ。
というのが最初の私の感覚。
論理的に話を進める為に、そう思った理由を整理しよう。
①そもそもセクハラである。
「まだ結婚しないのか」
「子供は産まないのか」
この言葉自体がセクハラである、というのは最早周知の事実であると思う。
②価値観の押し付けである。
結婚してから言え、子供産んでから言え、みたいな論調を感じるが、それはおかしくないだろうか。
女性の義務は結婚し、子供を産むことなのか?
③そもそも野次に品がない。
日本の議会の特徴だけど、ま、野次の是非はここでは割愛。
非建設的で馬鹿らしくて大嫌いですけどね、野次。
さてさて、みなさん。
「女性は産む機械だ」
という発言に対して、どう思われるでしょう。
数年前にスキャンダルになった発言ではありますが。
実はですね、「今回の野次の件で世間から女性議員の非が問われないのが日本の少子化の原因だ」「義務を果たしてない」みたいな意見を目にしたんです。
目にしただけです。
たぶん、野次った議員も、同じ様な考えなんだろうな、と思いました。
女性の仕事とは何なのか、と訊かれた時に、子供を産み、家庭を支えることだ、と答える。
女性は産む機械だ、と言う。
大差ない様に思います。表現の柔らかさの問題で、根本的には一緒です。
昨年、『The Feminine Mystique(邦題『新しい女性の創造』)』(Betty Friedan)の翻訳されたものを、抜粋して読みました。
Friedanが見た「女性」はごく限られた立場の女性だった、という批判の存在まで繋がったのですが、彼女が提起した問題は非常に今回の問題に近い、と感じました。
要約すると、「押し付けられた女性の役割を担うことで、女性は幸せになれるのか」ということでした。
女性は、女性として産まれたからには、働くことを、独りでいることを、自分の好きなことにかまけることを禁じられ、周囲から結婚し、子供を産み、家事を担い、家庭を内側から支えることを強いられなくてはならないのでしょうか。
そんな時代は終わったと、もしくは終わって欲しいと思います。
なぜ、自分の生き方を、社会に、他人に、決められなくてはならないのでしょう。
少子化問題が挙げられています。
確かに今、少子化問題は大きな日本の問題です。
しかし、それは女性の問題でしょうか?
「全ての女性が結婚し、子供を産めば少子化問題は解決するのだ」
あまりに乱暴な理論だと思います。
望まない妊娠を強い、子供を産むという義務を果たさせ、それが済めば女性は好きに働いていい。そんな話はないです。
少子化を解決したいなら、逆です。
女性の欲求に逆らうのではなく、従う。
働きたい女性が増えているなら、働きながら子育てを出来る様にサポートする。
しない人間を罰するのではなく、する人間に援助する。
これがあるべき姿でしょう。
大体、どうして自分の為に生きる前に、お国の事情の為に生きねばならんのだ。(これは主義の違いですけどね)
他人の生き方に口出しをする。
他人の役割を押し付ける。
それは、人と人との関わりで、あり得ないことだと思うのです。
人間は、オスメスでなく、男性女性、なのですし。
日本では(海外ではどうか知らないけど)「○○しないのは悪だ」みたいな論理に陥りがちだと思います。
でも、「○○する」ってのは自分で決める。それが個人を尊重することで、人間を人間として扱うことだと思います。
さてさて、と言うことで、まとめ。
一つ。女性は産む機械ではない。(男女平等的観点の、特に今回の話題に近いまとめ)
二つ。他人から押し付けられた「○○をしない」のは悪じゃない。(ここの部分だけ取り出すと、多分また長くなるから別の機会に)
三つ。それぞれの人の生き方を、それぞれが尊重すべき。
ってことで、まとめたら小学校の道徳っぽくもなりますが、そういうこと。
では、また次回。チャオ。